愛媛県額田王(生没年不詳)愛媛県松山市近辺出身 万葉歌人
“茜さす紫野ゆき標野(しめの)ゆき野守は見ずや君が袖ふる”
額田王は飛鳥時代の皇族、天武天皇の妃であり歌人です。斉明天皇を母に持つ大化のクーデターの首謀者 中大兄皇子(後の天智天皇)と大海人皇子(後の天武天皇)の二皇子の愛を受けた額田王は魅力的で知的な女性でした。
“熟田津(にきたず愛媛県松山市)に舟乗りせむと月まてば潮もかなひぬ今はこぎいでな”四国から九州へ向かって船出するときの歌です。
額田王にみる純粋な詩精神は上代における朝廷の圧迫を克服し、女性に課せられた隷属というハンディを解き放って多くの歌を残しています。
“茜さす紫野ゆき標野ゆき野守は見ずや君が袖ふる”額田王30才後半、“紫のにほへる妹を憎くあらば人妻故に吾恋ひめやも”大海人皇子46才(天武天皇)
後世では恋歌として盛んに取り上げられる歌ですが、池田彌三郎「萬葉百歌」によると宴会場の相聞歌と思われ実際は雑歌の部に分類されているとあります。
“君待つと我が恋ひ居れば我が宿の簾動かし秋の風吹く”
―あの方(近江天皇)を恋しくお待ちしていると簾がそよそよと動き、あの方かと思ったらお姿はなく秋風がふくばかり―
“古に恋ふらむ鳥は霍公鳥(ほととぎす)けだしや鳴きし我が思へるごと”
―遠い過去を恋慕って飛ぶ鳥はほととぎすですね。鳴いたかもしれません、私が昔を偲んでいるように―
歌人安永蕗子の「現代歌人文庫」からの抜粋ですが“恋愛が彼女に何ほどの力を及ぼしたかは知るべくもないが、恋愛の故に高名な歌人ではなく、現代ほどに人間関係も病んでいなかった時代である、まして額田王は二人の優れた愛人が現れなくてもその才能をもって世に出た人である。他の女流歌人がその奔放な愛欲の表現に躍起となって詩情の高貴さを忘却していたとき、額田王の熟田津における、三輪山における、蒲生野の草炎における歌のすべてが漂泊と離脱の感覚に支えられた詩品であることを強調したい”とありましたので追記いたします。
(現代歌人文庫「安永蕗子歌集」より一部抜粋)
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